先生がそこまでおっしゃるならお願いします|忘れられないカルテ

【日経メディカルAナーシング Pick up!】

談話まとめ:加藤勇治=日経メディカル

 

医師なら誰にでも「忘れられないカルテ」がある。後日、冷や汗をかいた症例、奇跡的にうまくいった自慢の症例、「なぜあのとき…」と今でも後悔している症例、などなど。ことあるごとに思いだし、医師としての自分の成長を支え続けている、心に残るエピソードを集めた。

 

ある土曜日、私は外科救急当番で朝の8時半から忙しくしていた。

 

午後5時までの勤務で、その後は後輩の脳外科医にバトンタッチだ。午後4時半を過ぎ、このまま無事終わってほしいとぼんやりと考えていた矢先だった。

 

救急認定看護師が走ってきた。この看護師は優秀で大好きなのだが、彼女が走って来るとき、大抵何かが起こる。

 

「先生!〇〇整形外科から患者さんのことで電話が入っています。脳外科の先生に代わってほしいとのことです」

 

「分かった」

 

ほら、やっぱり。

 

「はい、脳外科の角南と申します」

 

「〇〇整形外科です。72歳の女性ですが昼過ぎから意識レベルが低下して、今は反応がありません。脳卒中かと思うんですが、救急搬送よろしいでしょうか」

 

「了解しました。すぐに送ってください」

 

救急搬送されてきた72歳女性は腰椎圧迫骨折で2カ月前から入院していた。幸いもう痛みはなくなり、近々退院の予定だったそうだ。ひとり暮らしの年金生活。搬送には姉と妹が付き添ってきた。

 

意識レベルは300で瞳孔は散大。血圧は安定していたが、呼吸は失調性でSpO2は88%。すぐに酸素を開始した。

 

ルート確保の後、頭部CT検査を行った。前医が言ったように脳梗塞・脳出血などを考えていたが、CT画像は両側の慢性硬膜下血腫を示していた。血腫によって大脳は異常に圧排されており、脳室はスリット状になっている。

 

まだ間に合うだろうか……。いや、間に合わないかもしれないが血腫除去しか選択肢はない。

 

すぐに姉と妹を部屋に呼んで説明した。

 

「慢性硬膜下血腫といって頭蓋骨と脳の間に血液と髄液が混じって溜まっています。おそらく圧迫骨折になったとき、頭も打ったのかもしれません。そのときは大したことはなくても、脳の表面の血管に傷が付いてじわじわと溜まっていくんです。今朝まではぎりぎりの状態だったのでしょう。ひょっとしたら少し前からいくらか頭痛があったかもしれません。ある閾値を超えると急に症状が出ることも多いのです。患者さんはそうして意識がなくなっていったものと思います。瞳孔も開いており、かなり悪い状態です」

 

しばらく沈黙が続き、姉が重い口を開いた。

 

「助からないのでしょうか」

 

「今のままでは助からないでしょう。血腫を取り除くしかありません。間に合うかどうかわかりませんが、手術をして血腫を除けば意識が回復する可能性があります」

 

このとき姉と妹の表情が少し曇ったように見えたのは気のせいではないかもしれない。

 

「ということは、手術してもよくならないかもしれないんですね……」

 

「そうです。脳のダメージがひどいと回復しないかもしれません」

 

しばらく姉と妹は顔を見合わせて相談していた。そしておもむろに2人は「手術はしなくていい」と言った。

 

確かに急性硬膜下血腫で意識レベルが300であればあきらめて保存的治療としたかもしれない。

 

しかし、この患者は慢性硬膜下血腫だ。意識障害が始まってから時間はさほど経過していないだろう。ここはもう一度説得するべきだ。

 

「手術は局所麻酔でできます。両側を続けてやりますから、時間も1時間程度で済みます。良くなる可能性はあると思っています。やらせていただけませんか」

 

「でも寝たきりになるかもしれませんよね」

 

「はい。その可能性もあります。でも意識がなくなってから何日も経っているわけじゃありません。良くなる見込みは十分にあります」

 

「でも、介護がいるようになると、私たちも困るんです……。まったく元通りにはならないでしょ」

 

「まったく元通りは確かに難しいかもしれません」

 

「妹は今まで1人でそれなりに元気でやってきたんです。ひとり暮らしが無理なら手術しても…、ねえ」

 

「そのときは相談に乗りますので、手術をやらせてくれませんか」

 

このまま保存的治療だけという選択肢は、私には取れなかった。だから食い下がった。

 

確かに2人の気持ちも分からないでもない。相談に乗るって言ったって、私ができることには限りがある。

 

でも今、目の前に回復する可能性がある患者が横たわっている。そして私には手術をするスキルがある。私がここで「そうですか」と言うわけにはいかない。そう思った。

 

「わかりました。先生がそこまでおっしゃるならお願いします」

 

こうして私は両側慢性硬膜下血腫の手術を始めた。まずは左側からだ。頭皮にメスを入れても、反応は全くない。型のごとく手回しドリルで穿孔。硬膜に十字切開を加えると血腫の被膜が盛り上がってきた。被膜を破ると血腫が飛び出した。ちょうど100mL。

 

続いて右側だ。患者は微動だにしない。血腫は90mLだった。ドレーンは入れず、CT室へと移動した。

 

希望と不安が入り交じる複雑な気持ちだったが、手術の手応えはあった。脳の拍動はしっかり確認できた。画像が画面に出てくるまでの時間がいつもより長く感じた。

 

よし、血腫は除去できた。新たな出血もない。手術は問題なしだ。

 

しかし、ICUへ入るも意識レベルは300のまま。瞳孔も散大したままだった。

 

家族をICUに招き入れ、面会してもらった。そして明日の11時に再びICUで面会し、その時に病状を説明すると約束し、私も帰宅した。

 

帰り道、自分がどうやって帰ったかよく覚えていない。

 

翌朝、目覚ましは不要だった。5時に目が覚めた。すぐにICUへ電話した。

 

電話口で担当ナースの弾んだ声が響く。

 

「先生、ベッドに座って今もお話ししています。麻痺もありません。患者さん、少し興奮気味にしゃべっていますよ」。

 

「!!」。

 

言葉が出なかった。でも思わず涙が出た。

 

久しぶりに興奮する出来事だった。慢性硬膜下血腫の手術でここまで興奮し、そして感謝したことはない。

 

もう眠気は吹き飛んだ。食事も摂らず、すぐに病院へと向かった。

 

このときの朝日は今でもよく覚えている。

 

<掲載元>

日経メディカルAナーシング

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