アラフォーで国境なき医師団にチャレンジした、初めての派遣地での話

白川優子

看護師・国境なき医師団

 

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26歳で「私も国境なき医師団に入る!」と決めた私は、オーストラリアへ留学し、さらに現地での看護師経験を積みました。10年の歳月を経て36歳の時、ついに夢だった国境なき医師団へ。

 

今回ははじめて派遣された、スリランカでの経験をお話ししたいと思います。

 

国境なき医師団として、はじめての派遣

国境なき医師団(MSF)に入るという長年の夢を叶え、2010年に初めて派遣されたのは、美しい海に囲まれた島国のスリランカでした。
 

スリランカは、インドの南東に位置する島国

インド洋に浮かぶ美しい島国、スリランカ。インドの南東に位置する。

 

スリランカでは、タミル人の反政府武装勢力「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)と、シンハラ人を中心とする政府軍との間で対立がありました。

 

26年にも及ぶ内戦は、スリランカ政府軍がLTTEを抑えつけるかたちで2009年に終結しました。

 

私の活動地は、終戦の直前まで大激戦が繰り広げられた国内北部のポイントペドロと呼ばれる小さな漁村です。

 

素朴なタミル人たちが慎ましやかに暮らすのどかな場所でした。

 

ただ、LTTEの最高指導者がこの周辺の出身ということもあり、高度警戒地域としてスリランカ軍の徹底した監視下にありました

 

最高指導者は死亡していたものの、彼を慕うシンパによるゲリラの復活を政府が警戒していたようです。
 

スリランカの美しい海(イメージ)

スリランカの海(イメージ)。

 

改善の余地が大きかった感染対策

この村には、国境なき医師団が戦時中から長期に渡り支援をしてきた現地の総合病院がありました。

 

国境なき医師団は救急室や外科、産婦人科をサポートしており、私は、もともとは手術室のサポートを担当する予定でした。

 

ところが到着早々、チームリーダーから依頼されたのは、手術室ではなく、今まで国境なき医師団が手をつけていなかった外科病棟の術後看護と病院全体の感染管理

 

この病院では、術後の創部の感染が増えているという話でした。

 

せっかく手術がうまくいっても、感染を引き起こすと治癒が難しくなります。私は依頼を引き受けることにしました。
 

オーストラリアのビーチ(イメージ)

ポイントペドロ病院周辺。野生の牛が歩いている、のどかな風景。©MSF

 

まず驚いたのは、264床あるこの病院には看護師が30人あまりしかいなかったことです。

 

1人の看護師が2つの病棟を掛け持ちするなどして全体のシフトを回しており、みな疲弊していました。医師不足も深刻でした。

 

長い戦争が医師や看護師を減らし、また人材を新しく育てる教育も阻んでいたのです。

 

看護師不足を補うために雇われていた看護助手たちが各部署でサポートをしていましたが、清潔操作などのトレーニングを十分に受けていないまま患者さんの傷の処置などを行っていることが分かりました。

 

さらに物品や器具を使いまわしていることもありました。

 

私はこの看護助手たちにトレーニングを行うことで、感染管理の改善を試みようと計画を立てました。

 

7つの全ての病棟と、救急や外来、滅菌室、洗濯室などを日々回ってひとつひとつ指導していきましたが、私1人ではとうてい手が足りません。

 

そこで各部署から2名ずつのメンバーを募り、病院に「感染管理委員会」を設立しました

 

使い捨て医療器具の破棄や、消毒に関すること、手袋の装着・手洗い、ゴミの分別など、たくさんのことを何か月もかけて話し合い、業務への反映を試みました。

 

現地のスタッフに信頼してもらうため、覚えたタミル語はすぐに使い、スタッフにも患者さんにも積極的に話しかけ、たくさんの笑顔と挨拶に触れながら私は全ての部署を日々巡回していました。

スリランカの外科病棟にて、トレーニングの様子

外科病棟で、看護師と助手に対して患者さんの傷の処置のトレーニング。©MSF

 

「戦争は終わった?」患者さんを見て思うこと

国境なき医師団の同僚、現地スタッフとの一枚。

国境なき医師団の同僚、現地スタッフとの一枚。©MSF

 

その中で見えてきたことがありました。

 

外科病棟や外来には、未だに傷が治らずに日常生活に復帰ができない患者さんたちであふれていました

 

少年少女を含むLTTEの元兵士の患者さんもいました。

 

LTTEは、18歳未満の子どもを徴兵していたことで住民からは恐れられ、国際社会からも非難されていた組織です。

 

傷に苦しみながら何か月もベッドの上で過ごす患者さんたちを見ながら、「スリランカ内戦が終結した」という前年の大々的な国際ニュースを思い出し、戦争は終わった、だなんて誰が言えようと思いました

 

また、この病院には地元のタミル人と民族レベルでは対立していたはずのシンハラ人の医師が夫婦で奮闘する姿がありました。

 

戦時中からこの病院で働いていたそうです。

 

それぞれが担当する小児科病棟と内科病棟で、タミル人の患者さんたちに頼られている2人の姿を見て、市民レベルでは実は戦争なんて望んでいなかったのではないかと思いました

 

初めての派遣で学んだ人道援助のカギ

現地の服装で楽しむことも。

現地の服装で楽しむことも。©MSF

 

私の活動期間は2か月の延長を含め、8か月となりました。

 

私が取り組んだ感染管理については、劇的に改善されたこともあります。ただ空回りや挫折もありました

 

日本では教えたことがすぐに実践に生かされることは当たり前ですが、ここでは少し目を離すと元のやり方に戻っていることが当たり前でした。

 

文化や歴史、教育の背景や経済状況も違う環境で何かを変えようとしてもそう簡単ではないということは大きな学びでした。

 

 

私たちが思う常識を、彼らの状況に無理にはめ込んではいけない、だけど患者さんの命や健康に影響することには目をつぶることをしない

 

 

この辺りの加減を柔軟な姿勢でうまく調整することが人道援助をする上でのカギであるということは、のちに何度も繰り返す派遣で生かされることになりました。

 

スリランカでの初回派遣では教育や人材のマネジメントが中心で、直接の看護行為をすることはほとんどありませんでした。

 

それでもずっと目標にしてきた国境なき医師団で働いていることの喜びに、毎日満たされていました。

 

その時私は37歳。日本であのまま働いていたら、看護主任などの役職を考えてもおかしくない年齢です。

 

それでも、アラフォーで新しい世界に飛び込んだことで一気に人生が開けました

 

スリランカで見たことは、世界で起きている人道危機のほんの一部に違いないと確信し、もっともっと世界の人道危機の現状を知るべく、これからも国境なき医師団での活動を続けていこうと決心しました。

 

 

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執筆

看護師・国境なき医師団白川優子

埼玉県出身。高校卒業後、4年制(当時)坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006 年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年より国境なき医師団(MSF)に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど10ヵ国18回回の活動に参加してきた。著書に『紛争地の看護師』(小学館刊)。

 

編集:横山かおり(看護roo!編集部)

 

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