あなたは夢のために、「心地よい環境」を手放せますか?
オーストラリアで高待遇の看護師として働くうち、いつしか目を逸らすようになってた「国境なき医師団に入りたい」という夢。
今回は自分の夢を見つめ直し、ついにその入口に立つまでをお話ししたいと思います。
豊かな生活なのに、気持ちが満たされないのはなぜ?
オーストラリアのビーチ(イメージ)。
英語の壁を克服するためにやってきたオーストラリアで、すでに7年の月日が経とうとしていました。
オーストラリアの看護師免許、永住権、好待遇の職場を手に入れ、プライベートではビーチの近くに住み、休暇にはマイカーでいろいろな場所に出かけていました。
お洒落なカフェが立ち並ぶメルボルンで、たった数年前まではコーヒーを買うお金も惜しかった日々など、思い出すことすらなくなっていました。
ここまで英語の壁に挑んできたのは、華々しい生活を手に入れるためではなかったはずなのに、結果として手にした贅沢な暮らしに目が眩み、いつしか私は国境なき医師団への夢に蓋をしていました。
ただ、私の心だけは正直でした。生活が豊かになるほど、逆に虚しくなっていったのです。
「これ以上ない生活をしているのになぜ?」
なぜか満たされない日々が続き、気分転換のため長い休暇を取り海外に旅に出てみました。いわゆる「自分探しの旅」です。
1度では足りず、2度目の旅先で私はようやく観念しました。
「もうオーストラリアは卒業する時期に来ている」
「次のステージ、国境なき医師団に行くときが来たのだ」
ずっと目を逸らしていた答えでした。
それを認めたことで、詰まっていたものが取り除かれていくように心が軽くなりました。
「素敵な生活にしがみ続ける」という執着から解放されたのだと思います。
「いつでも戻ってこられるように」という愛情
私のサポートをし続けてくれていた病院に辞職を告げるのはとてもつらいことでした。
国境なき医師団に挑戦すると聞き、同僚たちからは応援よりも心配する声が先に飛んできました。
年に1度も顔をみることのない看護部長からは「休職」の提案がありました。
これは、「もし派遣先でつらくなったらいつでも戻ってこられるように」という取り計らいからでした。
最後まで愛あふれる病院でした。
「退職」が「休職」という形に変わり「YUKOはまた戻ってくる」とみんな安心していましたが、私には分かっていました、もうここには戻ることはないと。
こうして私は、オーストラリアで築いてきた生活を手放し、7年間の思い出とバックパック1つだけを背負い日本に帰国しました。2010年4月のことでした。
はじめての派遣で「いるべき場所」にたどり着いた感覚に
スリランカでの活動拠点となったポイントペドロ病院前にて。ここで8か月活動。
決意の帰国から4カ月後、私は初めての派遣先の病院に向かうスリランカの列車の中にいました。
常夏の風を顔に受けながら1人揺られると、これまでの軌跡が頭を駆け巡りました。
国境なき医師団の面接には自信を持って臨めました。
36歳になっていた私は、語学力だけではなく、そして看護師としての実力だけでもなく、人間的な強さも備わってきていたような気がします。
7歳のころに初めて知った国境なき医師団は、私の憧れであり、尊敬する存在であり続けました。
20代の前半は看護の喜びを感じながら夢中で働きました。
20代後半、国境なき医師団に入ろうと決心したけれど、英語が上達せずに挫折を繰り返しました。
そして今、どんなに思い焦がれていたか分からない国境なき医師団のTシャツを身につけています。
ポイントペドロ病院の男性外科病棟。戦争で傷を負った患者さんの処置が多かった。
色とりどりの植物や、動物の群れたちを見ながらあれこれ想いめぐらせていると、目に映る景色がだんだんと変わっていきました。
焼け焦げた雑木林や、たくさんの壊された家が次々に現れます。
スリランカでは、タミル人とシンハラ人という、違う民族同士の間で20年に及ぶ激しい対立が起きていました。
内戦の深い傷跡を実際に目の前にし、気が引き締まってきます。
これから立ち入る地域は厳戒態勢が敷かれ、人や物資の出入りを含めスリランカ政府軍による徹底的な管理下にありました。
国境なき医師団の一員として与えられた私の立ち入り許可証を今一度この目で確かめます。
これはもう夢ではなく、私は現実の世界にいるのだと教えてくれていました。
感動、驚き、そのような感情よりも、ようやく私がいるべき場所にたどり着いた、そのような感覚でした。
この先、国境なき医師団の現場で私は何を見て、何を感じるのだろう。
今まで以上につらいいことがあるかもしれない。
だけど、オーストラリアにいた時のようにもう周りに甘えてはいけない、そう言い聞かせながら立ち入り許可証が入ったバックパックをぎゅっと胸に抱きしめました。
いまも、国境なき医師団に馳せる想いは褪せない
ポイントペドロ病院で生まれた新生児。産科病棟にて。
あの時から14年、私は国境なき医師団という夢の舞台に立ち続けています。
必要な医療を世界中の人々に届ける喜びが私の心を満たしてくれています。
いっぽう、現場では戦争の残虐性や非人道的な現状も目の当たりにすることもあります。
国境なき医師団では医療活動と共に、その現場で見てきたことを証言することも私たちの大切な使命です。
2018年に私はそれまで見てきた現状を伝えるため、紛争地の医療現場のリアルを書いた「紛争地の看護師」を出版しました。
その2年後には紛争地で暮らす人々にフォーカスした「紛争地のポートレート」を出版しています。
より多くの人に世界の人道危機の現状を知ってもらえるきっかけとなりました。
2025年、今なお世界に広がる人道危機は解決していません。
国境なき医師団もまた、独立の立場を変えず、中立を保ちながら公平に医療を届け続けています。
世界の権力や圧力に怯むことなく証言活動を行う姿勢も変わっていません。
そして私自身はというと、国境なき医師団に馳せる想いはいまだに褪せることなく、この先もまだもう少し自分の人生を重ねてきたいと考えています。
――19回目の派遣先、レバノンにて。(2024年12月)
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看護師・国境なき医師団白川優子
埼玉県出身。高校卒業後、4年制(当時)坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006 年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年より国境なき医師団(MSF)に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど10ヵ国18回回の活動に参加してきた。著書に『紛争地の看護師』(小学館刊)。
編集:横山かおり(看護roo!編集部)
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